朝鮮半島は892年に弓裔により後高句麗が興されて後三国時代に入るが、弓裔の配下にいた王建(太祖)が高麗を建て、936年に全土を統一する。統一後すぐに太祖は五代王朝に対して朝貢し、宋が建つと正朔を奉じて冊封国となった。
太祖の統一戦と平行して遼が渤海を滅ぼしており、契丹が宋と争うようになると後背を気にした遼は993年より高麗へと侵攻し、994年に高麗は鴨緑江以南の領土と引き換えに契丹の正朔を報じ、宋との関係は絶たれることになる。その後しばらくは宋と高麗の関係は絶えたままであったが、神宗の1068年に宋からの非公式の使節が送られ、これに答えて高麗は宋に朝貢をするようになった。こうして高麗は宋、遼と二重の外交関係を結び[10]、両国の対立を利用して[10]仲介貿易を行い、利益を獲得した[10]。
宋と高麗との間で頻繁に使者が往復し、宋から『文苑英華』・『太平御覧』、高麗からは『宣和奉使高麗図経』が互いに送られた。また交易のための船も行き来し、北宋が金によって滅ぼされるまで関係は友好的に進んだ。
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907年の遣唐使廃止以降日本は対外的に消極的になり、一般人の対外渡航を禁止する半鎖国状態となっていた。この後、基本的に宋と日本とは正式な国交は開かれないままであった。新法で財政が充実した神宗が外交でも積極策に出たことは上述したが、日本に対しても朝貢を促す使者が送られた。日本側ではどう扱うかで逡巡していたが、最後には受け入れて宋に対して返答の使者を送っている。しかし以後に続くことはなく両国の関係が本格的になるのは南宋になり平清盛が日宋貿易を大幅に拡大する時以後になる。
民間の交易では宋側が積極的であり、宋が成立した後の978年に初めて宋船が日本を訪れた。主に寄港地としては主に博多であったが、中には敦賀にやってくる船もあった。日本に来た外国船は大宰府の鴻臚館に収容し、衣食を供給する定めとなっていた。しかし宋船の来航回数が多いと費用がかさむので年紀を定めて来航するようにさせた。宋船ではこれを守らずに来航するものも多かったが、この場合はそのまま追い返してしまったようである。また広大な荘園を持つ貴族たちは「不入」の権を持つ荘園内で密貿易を行い、大宰府もこれに手を出すことが出来なかった。
宋から日本に持ち込まれる物品としては香料・茶・陶磁器・絹織物・書籍・薬品などである。これらの決済に使われたのが主に奥州産の砂金であり、日本から宋へはこれが最も重要な輸出品であった。他には硫黄・水銀などがあり、そして工芸品が重要な輸出品であり、中でも扇が宋の士大夫たちに大変好まれたという。
この間、日本の商人たちは受動的な商売に限定されるをえず、中には密航して宋へと渡ろうとしたものもあったが、発覚した者は徒罪や官職剥奪となった。しかし11世紀後半(宋神宗・日本白河天皇)になると商人たちは大宰府の目をかいくぐり、自ら船を出して宋を目指すようになった。ただしこの時代の日本の造船・航海技術は低く、東シナ海を横断することは危険が大きく、始めは島伝いに高麗へ行き、そこで経験を積んだ後に宋へ赴くようになった。日本船が始めて宋の記録に現れるのは北宋滅亡後の1145年である。
日本の一般人の海外渡航は禁じられていたが、仏僧だけは例外であった。北宋期に宋へと渡った僧は奝然・成尋などがおり、奝然は太宗に召されて雨乞いの儀式を行い、また日本の天皇家が万世一系であると伝え、太宗がそれを羨んだという話が残っている。